【フィヒテの自由】納期との向き合い方

締め切りが着々と迫りながら、何を書こうかなとカタカタと無意味にタイピングをしていますが、現代人はどうしてこんなにも「締め切り」に追われるのでしょうか。

多くの業界にも「締め切り」、いわゆる納期があって、皆さんはその得体の知れないモンスターに追われる日々ですよね。そのモンスターに追われながら、心をすり減らして行く方もいるのではないでしょうか。(筆者もです・・・笑)

私たちはどのように「締切」に向き合っていけばよいのでしょうか。

1 納期がなければ私たちは自由

筆者も今まさに迫り来る「締め切り」に追われています。
やっぱり、「あー締め切りなんてなければなー」なんて思っています。

もし「締め切り」がなかったらきっと私は自由な状態ですよね。

ここでいう自由というのは、次のように定義できます。

(定義1)
  自由=外部の拘束がない状態

イギリスの思想家、ホッブズもこのような自由観持っています。

「自由とは外的な障害が存在しないことだ (「リヴァイアサン第14章」)」

誰しも自由を求め、自由な状態を感じている時は気持ちいいものです。

だから締め切りがない状態というのは、外部からの拘束がない自由な状態と言うことができますね。

2 ゴロゴロした休日はなぜだか損した感

でも逆に拘束がない状態が、気持ちいい自由なのでしょうかね。例えば本当に何もない休日が少し休日のように物足りなさを感じることだってありますよね。

ひたすらゴロゴロと休日を過ごし、「何をやっているだろうなー」と思うあれです。

そうなると自由を感じるというのは難しいものです。こんなことを言っている人がいます。

「人間は自由の刑に処されている。」(サルトル「実存主義とは何か」)

こうなると外部の拘束がない状態が自由だと思っている私たちは、「自由の牢獄」に収監されている不自由な囚人なのかもしれないです。

自由は気持ちいいものです。
やっぱり人は誰しも自由に生きたいものですよね。

ではやっぱり締め切りは自由を脅かすモンスターなのでしょうかね。

3 納期があっても自由を感じる方法

自分の外部から提示された<締め切り>ですが、自分もそれに合意をしたので、このモンスターは自分で生み出したとも言えます。それは<目標>を自分に設けたとも捉えられるわけです。

「自分で設定したのだ」、このように思うことにしましょう。これが大事です。

自分で決めたことに不自由を感じる人はいないと思います。そう、自分で決めることは、とっても自由なことだと言えます。

このような自由は次のように定義できます。

定義2
 自由=自分で決めたことをやっている 

例えば、何か自分を縛るルールや習慣があったとします。外部から押し付けられたと思っているときは、これらに「縛られている」という不自由さを感じますよね。

しかしこれを自分の頭でルールがあることの価値・理念に納得した場合はどうでしょうか。途端にそれは自分を縛るものではなく、自分の一部になった感覚になるのではないでしょうか。

今挙げた例に似たようなことをドイツの思想家フィヒテさんが、次のように言っています。

「理性をかいた一切のものを自己に従わせ、これを自由に自分の掟(法則)によって支配すること、それが人間の究極目標である。」(フィヒテ「第一講演」)

要するに自分の理性に従って生きることが自由で、そしてそれが人間の目標であるとまで言っているわけですね。

ちなみにすごく良いこと言ってるなって思うのですが、多分私はフィヒテさんのような人とは友達になれないと思っています。

私は喫煙者です。このような人間は「ニコチンを吸いたい」という欲望に従属していると、フィヒテさんにはきっと言われると思います。私のような中毒者は欲望を理性によって抑えることのできない「非自由人」ということですね。

まあそんな時は「自分のルールで「吸いたいから吸うのだ」」と言い返したいと思っております。

さて、ようやく「締め切り」というものと向き合って「自分は自由だ」と思い、気持ちよくタイピングは進んで効いた頃ですが、原稿にも限りがあり残念ながらこの記事はここまでになりそうです。(WEBだから原稿に余裕がなくなるなんてないだろ!というツッコミは無しにしてもらおう)

来週も納期に苦しむ人々に送る締切論をお送りしたいと思います。
では、また来週。(間に合ってよかった)

4 まとめ 「納期」への向き合い方

外部から与えられた制約→自分で決めた目標
(効果)
自分で決めた目標は、自由の感覚をもたらす。
そして自由とは、人間が気持ちよく生きることのできる価値観です。気持ちよく生きることができます。

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